No.260 ・『THESONGWRITERS2nd Season 』 @佐野元春(3)

kneedrop2010-09-22

A world of 1200 letters 『1200字の言葉の世界』−9
「普遍の祈り」 DJ / KNEEDROP つづいてます。

 国内のソングライターたちの悩みは、何と言っても「言葉」だろう。
構造的に日本語はリズムに乗りにくいという。情報量を多くすると言葉が小節からはみだしてしまい、音楽的に機能しなくなる。情報量をたっぷりと保ちながら言葉を厳選していくと、まるで俳句のように、隙間だらけの抽象性だけが顕在化してしまう。
それはとりもなおさず、西欧のポップ・ソングをフォーマットに曲を書いていることに起因しているのだが、
今更我々は古来伝統の長唄や小唄をフォーマットにして言葉を紡ぎたいと思うだろうか?(やってみても愉快だろうが)。先日、僕の伯母の長唄の発表会を見に、国立劇場へ行った。実際僕は長唄をライブで見るのは始めてだった。伯母のパフォーマンスはすばらしかった。題目は忘れたが、有名な唄らしい。
完成された形式が美しさをともなって聴くものを圧倒する。あるいは安心させる。僕は注意深く、そこで語られている唄の内容を聞き取ろうとしてみた。せつないラブ・ソングだった。僕はうっとりとしてしまった。
ゆっくりと、それはゆっくりと、噛んで含めるように唄われた。
しかし、30分ばかり経つと、残念なことに僕は落ち着きがなくなってしまった。なぜなら、曲のテンポがあまりにもスローだからだ。しかも、言葉の一行を唄うのに、おそろしく時間がかかる。それが「形式」なのだからしかたがないのだが、彼女達が一行唄い終わる間に、もし僕だったら2曲目を唄い終わっているだろう。
とうてい現代の都市生活の速度にはマッチしないテンポ感だ。
国内のソングライターたちの「言葉」に関する悩みは尽きない。
しかし、95年現在、我々は、ユニークな、しかし聴きごたえのある、日本語によるラップ音楽を聴くことができる。インディーズはこれからもまた、既成を越えて、冒険的な作品を生むだろう。日本語によるロック表現は、異化と同化を繰り返しながら、確実にその裾野を広げている。
西欧のポップ・ソングをフォーマットに曲を書く。これは今に始まったことではない。歴史の詳細は専門家に任せるが、ロックやフォークの分野で、僕がそのことを初めて意識したのは、70年代の始め、「はっぴいえんど」のレコードを聴いた時だ。
彼らは日本語によるロック音楽のパイオニアだった。彼らの発明に刺激されたソングライターは少なくない。僕もそのうちの一人だった。彼らは日本語の持つ構造を一旦分解し、独特の知性で文節を繰り、半ば強引に言葉をあてはめた。全く新しい手法だった。そこで唄われていた内容は、おおざっぱに言えば、「都市に暮らす、伏し目がちな兄貴たちの虚無的な心象風景」といったものだった。
僕は短い期間、彼らの音楽に夢中になったが、長続きはしなかった。なぜなら、僕自身が曲を書き始めたからだ。その際、意識的にせよ、無意識的にせよ、作詞の参考としたのは、やはり彼らの音楽だった。
そこに批評眼が芽生えた。世代で言えば、ひとつ下であった当時の自分は、「はっぴいえんど」とはまた違った手法で、街をスケッチしたいと思った。下の世代が上の世代に挑戦し、勝ち取ってゆくのだという図式が、そこにあったかもしれない。「はっぴいえんど」は自分にとって、教師でもあり、また反面教師でもあった。
                                                        (つづく)
                   佐野元春 : オフィシャル・ファンサイト - Moto’s Web Serverより抜粋。




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