No.14・若草屋北斎@詩的・音楽的同志よりの激励(推薦文)1

kneedrop2016-09-15



Beat goes on...!
The Paradise of Mujo

こんにちは! DJ/ KNEEDROPです。


みなさんごきげんいかかですか。
ほんとうにご無沙汰しています。
元気でやっていますか!(^-^)g"

9月の1回目の放送です。
「無常の楽園」この番組はFREE LIFEの提供でお送りします。


わたくしの詩集Web Program ”五十嵐精一詩集”の推薦文を友人が書いてくれましたので今日は3日間に3回にかけてこの番組”無常の楽園”にも
ONAIR!しますのでどうぞお付き合いください!


Web Program ”自選五十嵐精一詩集”のURLはこちらです!
URLhttp://d.hatena.ne.jp/kneedrop2/20090905
たくさんのアクセスと詩に対してのコメントもお待ちしています。



”自選五十嵐精一詩集”の推薦文のONAIR!です。


∞ 詩的・音楽的同志よりの激励

      (五十嵐精一詩集推薦文)∞ 若草屋北斎




『Web Program 五十嵐精一詩集』 ONAIR!

(刊行)おめでとうございます。

一友人として心より祝福申し上げます。」



申し遅れたが、私は「若草屋北斎」と名乗る氏と志を

同じくする者である。 以後、お見知りおきを…。

 

氏と私ともうかれこれ長い付き合いとなる。

人生においても「詩人」ということにおいても

私にとって尊敬すべき大先輩である。

しかしそれ以上に親友であり、冒頭述べたように

同志であると思っている。



氏の作品がどれも素晴らしい、というのは

今さら私ごときが述べるまでもないことであり、また、個人的に特に好きな作品を取り上げ、自分なりに

評論するのは比較的容易なことではあるが、

この場において、私から1つ1つ作品の解説をするのは得策ではないように思う。



何故ならば、人によって受ける作品の印象はまったく違うからである。

下手な解説を付け、先入観を持って読まれるくらいなら、最初から作品解説などない方がいい、というのが

私の考え方である。

 

少々前置きが長くなってしまったが、そういったわけで、今回は詩人・五十嵐精一の内面的部分を私なりに

掘り下げ、それをもって推薦文とさせていただくこととした。

 

さて、「詩人」として見た場合、私と氏とは3つの点において非常に良く似ていると思う。もちろん性格はまったく違うし、取り上げる詩の題材や表現方法も異なるわけだが、その発露となっている精神的構造が似ていると思うのである。

そしてそれは、詩人、特に男性の詩人にとっては、共通の「条件」であり、見ようによっては非常に「鼻持ちならない人種」である、と言えるのではないだろうか。




1つ目は  ?  ナルシストであるということ



つまり、「自分大好き人間」である。

そして「自分の作品が最も優れている」と常に思ってしまうのである。さらに、自分は個性溢れる非凡な才能の持ち主であり、「自分の作品は自分にしか書けない」とも思っている。

 

だから「誰かの作品と似ている」と評価されることを非常に嫌う。もちろん、過去の優れたアーティストに出会わなければ今の自分はないわけだから、その影響を受けているということ自体は否定しはしない。

だが、自分としてはそれら諸先輩方の作品を「消化」あるいは「昇華」し、それらの要素をうまく組み合わせ、あたかも「自分独自の世界観を作り上げた」と思っていたいのである。そしてそれはある意味真実である。そうやって私達は1つ1つの作品を作って来たのだから…。

 

さらに、それらの作品に非凡性や独自性を持たせ、「他のアーティストとは違う」と主張するため、我々は色々な表現を使う。時に比喩を用い、また難解な表現に変えてみたり、人称を変えてみたり、わざと主語を省略したり、と…。本当に伝えたい内容はごく単純なものであるにもかかわらず、である。



でもそれでいいのではないだろうか。

だって他のアーティストも皆そうしているのだから…。

あるのは認知されているか、プロとして売れているか・いないか、の違いだけである。

 

ところで、日本にはそれとは異なり、すべての無駄を排した表現世界が確立されている。それは、短歌や和歌、そして究極的には俳句の世界である。そこには自分の主義主張というものは存在しない。そこにある情景を感じたとおりに表現するだけである。

 

 五・七・五という限られた字数的制約の中に余計な感情を入れる余地はない。しかし、時に森羅万象あるいは宇宙の理を表現し、併せて些細な感情の機微まで入れてしまう、というのだからこれらは世界にも誇れる芸術だと思う。千年も昔の人が詠った歌の「スマートでありながらなんと深い表現であるか」、ということに今さらながら驚かされてしまう。

 

 しかしながら、私達には決して優れた和歌や俳句を生み出すことはできないし、その必要もない、と思っている。私達の詩はあくまでも歌として「歌う」ことを前提に書いている。歌いたいことを限られた字数に集約するには無理があるし、第一、五・七・五では短すぎる。

だから私達はあくまでも「俳人」ではなく「詩人」なのである。 (つづく)
















































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