NO.15・若草屋北斎@詩的・音楽的同志よりの激励(推薦文)2

kneedrop2016-09-16

Beat goes on...! The Paradise of Mujo
つづいてます。


∞ 詩的・音楽的同志よりの激励

(五十嵐精一詩集推薦文)2 ∞ 若草屋北斎


2つ目は ?  エゴイストであるということ

 

これも?に似ているが、多分に私達は利己主義者である。私達は人に認められ、賞賛されるために詩を書いている。そして私達は常に見返りを求める。

ただ、私達はプロではないので、たとえ作品を発表したとしても金銭的な見返りというのは発生しない。

しかし、それでも私達は見返りを求めている。

「見返り」とは必ずしも金銭的なものとは限らない。

それは「賞賛」であり、「評価」である。

 


だから、詩人である私達が最も恐れるもの…、それは「無視」であり、「無関心」である。作品を発表しても誰からも見てさえもらえず、さらに見てもらえたとしても反応がないと、私達は心配になるのである。そしてそれが続くと、作品を作り出す意欲さえも萎えてきてしまう。…本当は誰に認められようがいまいが関係なく、「孤高の人でありたい」、と願っているのに…。 



次に恐れるもの、それは言わずもがな、「誹謗中傷」である。私達は無名であるが故に、まだ激しい誹謗中傷というものに晒された経験はないが、それはすでに多くのアーティスト達を傷つけてきた。



誹謗中傷する人間は、それが快楽であり、ストレス発散になっているからやっているに過ぎない。

あたかも自分が社会的・道徳的にも上の立場の人間であるという驕り、あるいは自分にできないことをやっている、というひがみから、他人を攻撃することで自己満足している救いようのない連中なのである

(私も時として人のことはいえないが…)。

 

そして、最もアーティストをやる気にさせ、成長に導く評価というもの、それこそが「賞賛」であるか、といえば、必ずしもそうとも限らない。賞賛を受けた人間は少なからず、「自分がやってきたことが正しかった」と感じる。そこでまたリセットできればいいが、多くの場合、そこで認められたことをいいことに、次の作品もまた「同じような路線で、少し表現を変えれば、また受け容れられるのではないか」、という錯覚に陥る。



その結果、そこで成長は止まり、自分の作品の二番煎じ・三番煎じとなるような作品を作り続け、マンネリに陥り、飽きられるのである。

 

私達が作品を作るうえで、人からの評価に少なからず影響を受ける、ということ自体は否定できないと思うが、私達は常にピュアであり、開拓者であり続けなければならないと思う。



では自分を最も成長させる評価とは何か、といえば、それは「批判」であり、「否定的評価」であるように思う。

「誹謗中傷」と「批評」は似ているがまったく違う。

誹謗中傷は単にアーティストを攻撃し排除しようとするものであるが、批判はその作品を読み、あるいは聴き、違和感を覚えたり、まだ作品としての完成度が不十分だと感じたりしたものを率直に表現するものである。

 

誰でも自分の作品を批判されれば面白くはない。

ましてプライドの高いアーティストであれば、なおのこと、受け容れがたいであろう。だが、その評価に少しでも真実が含まれていれば、そのアーティストはいずれ自分もそのことに気付き、奮起し、さらに良い作品を作ろうと努力するはずである。だから必ずしも評価した本人がそのアーティストの為を思って言っているとは限らないとしても、「時に批判も立派な先生となる」と

私は思うのである。



氏の作品はもちろんどれも素晴らしく、私ごときが

とやかく述べる立場にはないが、この詩集を読まれた

皆さんは、それがたとえ「賞賛」であれ、「批判」で

あれ、率直に感じたことをお伝えいただければいい。

それが、何より氏が望まれていることであるように

思う。 (つづく)











































・・・The Paradise of Mujo・・・