No.34・平野靖之@BOOK『 普遍の祈り 』 (1)巻 推薦文

kneedrop2009-04-14

BOOK『普遍の祈り』(1)巻 推薦文

「思想とカルチャーが交錯し疾走する
レディオ・ショー的レビューと
世界へのメッセージを込めた創作の世界」

〜『普遍の祈り』(1)巻の発刊を祝して〜 平野 靖之


この本は、「創作」の世界において私の師であり、
よきライバルでもある旧知の友が、全世界に届けたいメッセージを込め、日々綴ったブログを1冊の本にまとめたものである。

この本の中では、彼のルーツ、すなわち、今の彼の思想的土壌を形成する様々なアーティスト達とその作品群、そして彼の分身ともいえる自らのオリジナル作品が流麗な筆致によって紹介されている


彼は、この本(つまり彼のブログ)の中では、
「kneedrop」というDJの名を借り、
あたかもレディオ・ショーのような臨場感を持って
リスナーに語りかけるように軽いタッチで表現をしている。が、実は読み込むほどに、その内容は鋭い感受性によって裏打ちされ、そして深い愛情を注ぎ、1つの作品を掘り下げたものとなっていることが伝わってくる。


この本は、まさに彼の人生の軌跡を綴ったものと
いっても過言ではない、重みある一冊である。


「普遍の祈り」というタイトルの意味については、彼はこの番組でこうONAIRしている。

2月4日NO.20回目の放送の時もこの番組名の変更についての動機をすこし書きましたが、どうして『普遍の祈り』という番組名にタイトルを変更したかといいますと以前、私の友人から戴いた手紙の中の一節に祈りについて書かれた箇所があり、読んだ時に深く感銘をうけたからです。
この一節を読んだ時に1990年代中期以降の私のこれからの作品のテーマは祈りになるだろうとこの時、直感しました。


それと私が2年間通っていた幼稚園はカトリックの幼稚園でした。1日に何度もお祈りを捧げていました。
こんな殺伐とした世の中にもなり、人は自分の力だけで問題を解決できないことにも見舞われる時があります。そんな時私たちは人はどうすればよいのでしょうか。そんな時もう行き着く先は何も残されていないと気づいた時、人にはもう祈り、祈りを捧げることしか残されていないと思えるのです。


そして幸せの定義はもちろん人それぞれ違いますが、私の作品に触れた人々を、幸せへ導いてゆくものでなければいけないと考えるようになりました。作品を祈りとして世界のすみずみまで広く行き渡るという意味も込め、『普遍の祈り』というテーマに変更しました。と


そして、宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」の一説を受けてのものであり、彼自身、その影響を認めたうえで、目指す姿を投影し、ネーミングしたという趣旨のことを、冒頭の文章の中で綴っている。

まさに、このブログの最終目的を端的に
表現した言葉であるといえるが、開設当初から
そのネーミングとテーマで番組(すなわち彼のブログ)をスタートした訳ではなかったという。

当初、番組名は「闇の記憶」であった。
このタイトルは、この本の中でも紹介されている
彼のデビュー詩集と同名であるが、彼の作品を代表する言葉として、我々に多くのことを想起させるミステリアスなキー・ワードであると同時に、
彼自身をして、彼の詩人としての存在理由は何かを自ら問うことになる、いわば彼の一生を左右する重大な意味を持つネーミングであったという。
もっとも、作詞をした当初は、それほどの重みある言葉になるとは、まったく考えもしなかったそうであるが…。


その後の変遷によって、彼は思うところあり、番組名をこの「普遍の祈り」へと変更することになる。


それについては、この本の中でもリアルタイムに心境の変化が綴られているが、深く考えずとも
「闇の記憶」はどちらかといえばネガティブな響き、「普遍の祈り」はポジティブな響きであり、番組のノリやカラー、目指す方向性を考えれば、必然の変化であるといえよう。
しかし、彼を知る私には、この改称の意味について、それだけではない、さらなる必然性というものを感じるのである。



当初のネーミングである「闇の記憶」…、その言葉の持つ真の意味について、彼自身、まだ納得のいく答えを見出せていないという。彼が言うには、恐らく一生をかけて探し続けるテーマであると。

私も同感であり、それほど、何かこの言葉には神秘性・必然性を感じるのである。しかし、その答えを見出すことを待たずして、次に彼が「天」から受けた啓示は「普遍の祈り」であった。
一見、この二つは相反する言葉であるようにも見えるが、実はそうではない。 孤独の「闇」を知る人間だからこそ、人の「苦悩」が判るのである。


「苦悩」を味わった多くの人間は、自らの境遇と、それを産み出した人間あるいは社会を恨み、時には犯罪に走ったり、自らを傷つける道を選択したりすることとなるが、それは、自らが出会った「闇」を消化できず、「〜のせい」に転化することで自分を正当化/あるいはすべてを終わらせようした結果に他ならない。
だが、ごく稀にではあるが、自らの「闇」≒「苦悩」を受け入れた上で、同じ(あるいはもっと深刻な)境遇にある人間の「痛み」に思いを馳せ、それを救済しようとすることで、自らの存在意義を見出し、結果的に「世界」を導く人間が現れることがある。


私は宗教家ではないし、一介の凡人である。そしてそこまでの苦悩を味わっておらず、それを語る資格もないのかもしれない。しかし、なぜか断言できる。彼は類い稀なる「その種」の人間であるからこそ、「闇」を知り、そこで自らの「道」を求め、次なるステップとして、「普遍」の「祈り」というテーマに向き合うことになったのであると。これはまさに時代が求める「必然」なのである。


したがって、この本のプロローグ(No.0)は「COUNTERATTACK」でなければならなかった。そして、このブログは日々、推敲/進化を続けているという。この本の刊行後もそれは繰り返され、10年後・20年後にはまったく違う形に変わっているかも知れない。しかし、それもまた必然であり、それこそが、このブログの最大の「使命」と考えるのである。


少し、前置きが長くなりすぎたが、本編の内容について、少し触れたい。
この本は、序章や解説部分を除き、書き込み日ごとの「テーマ」ということで括ると、自作詩の紹介:11回、自作本の紹介:4回、南方熊楠(とそれを独自の視点で紹介している中沢新一氏)のレビュー:3回、
宮沢賢治についての随筆:3回、ラジオ番組の紹介:3回、映画作品の紹介:2回、日本人ミュージシャンの紹介(回により異なる):5回、外国人ミュージシャンの紹介:2回(ボブ・ディランとジョンレノン各1回)、詩人(中原中也和合亮一氏)に関するイベント報告:1回という構成となっている。



まさに、彼を形成する詩的・文学的・音楽的要素そのものが散りばめられた内容といえる。
それぞれに深い造詣と彼のバック・ボーン/想いが込められた内容となっているが、誤解を恐れずあえていえば、この1冊の中でのクライマックス部分は、中沢新一氏による南方論とこの本のタイトルの由来にも関係する宮沢賢治の回ということになるであろう。


彼が影響を受けた個人的な「思い」の枠を超え、まったく予備知識がない方が読んでも、その魅力と才能、その後の日本文化に与えた影響が理解・推察できる紹介の仕方となっているのと同時に、すでに彼らを熟知している人間が読んでも共感ができる、つまり「説得力」と「普遍性」において一流のレビューとなっているのである。
この本を読み、その込められたメッセージに想いを馳せつつ、彼の薦める作品を紐解いていくと、現在の日本の知的サブカルチャーが勉強できてしまうという、まったく贅沢な一冊なのである。


そして、彼自身の作による「詩/詞」の紹介という点に於いては(いずれの作品も甲乙つけ難いが)、この本が記された「〜2009年」という限定的な視点であることを前置きしたうえで、あえて挙げるならば、最高到達点は「春の祈り」と「春の宵」、つまり「春」を題材とした2部作、ということになるであろう。そこには、彼の目指そうとする「世界」のあるべき姿、現世の「苦悩」に直面しているあらゆる人達への想い、そして、彼の追求するテーマであり、この本のタイトルでもある「祈り」…、といったものが凝縮されている、と感じるからである。


彼は、現在もこのブログを継続し、さらなる進化を続けている。そして、この後も続編となる書籍化を行っていくつもりであるという。この本の中で紹介されているアーティストは、彼が影響を受け、尊敬している人間達であることは確かだが、到底全部は網羅されておらず、まだまだ一端にすぎない。
そして、彼自身の作品もまた、ほんの一部しか紹介されておらず、これから彼が伝えたいメッセージは山ほどあるという。つまり、本作は(これはこれで一つの完成形ではあるものの)、今後も2作目・3作目と続くことを前提とした序章にすぎないのである。早くも、次回作の刊行化が待ち遠しい、というのが私の率直な感想である。(了)


(この推薦文は2010年7月に平野靖之さんへこの番組『普遍の祈り』(1) DJ / KNEE DROP 2005年12月20日 No.0〜2009-04-11 No.33までの内容を書籍化にするにあたり執筆いただいたものです。)