No.146・profile&MILESMUSIC@MILES DAVIS(2)

kneedrop2010-02-19

      【二十四節気】   【 七十二候 】
2月19日  (雨水)      土脉潤い起こる (つちのしょううるおいおこる)
                            ・・・・・雨が降って土が湿り気を含む。
《 MUSIC REVIEW♪−9 》 
「普遍の祈り」 DJ / KNEEDROP つづいてます。
【マイルスの言葉】
 ミュージャシャンの命はサウンドだ。自分だけのサウンドだ。そいつがなければ何もできない。
 いいか、オレはコードなんかどうでもいいんだ。サウンドをプレイしたいんだ。
 もし、そのサウンドがが出せなかったら、オレは何もできない。

                                   「イースト・プレス刊 マイルスに訊け」より
それでは本日、2日目はまずマイルスのプロフィールとアルバムを紹介します。
マイルス・デイビス - (1926〜1991) - 】
マイルス・デイビスは1926年5月26日、イリノイ州アルトンに生まれる。父は歯科医、母は音楽教師の裕福な家庭に育つ。13歳の誕生日に父親からトランペットを贈られ、のめりこむ。16歳で結婚。セントルイス近辺のクラブでステージに立つようになり、ニューヨークのジュリアード音楽院に入学。しかし、1年ほどで退学しチャーリー・パーカークインテットのメンバーとして活動を開始する。時はビ・バップの華やかかりし時代だった。
【初期 - クールからハード・バップへ -(1950〜1953)- 】
1948年に人気クラブのロイヤル・ルーストから誘いを受けマイルスは9重奏団を結成し、ホットなビ・バップに対抗しクールな演奏を追及。これが、のちのウエスト・コースト・ジャズに多大な影響を与える。1951年には、一転してハード・バップを演奏するようになり、自己のオールスターズで「バードランド」に出演。しかし、この頃にはすでに麻薬に溺れるようになっていた。この最悪な状況に手を差し伸べたのはブルーノートのプロデューサー、アルフレッド・ライオン。
彼は定期的にマイルスに録音をさせる。この時の恩がのちに、レコード会社は別でありながらキャノンボール名義にして「◎Somethin' Else」を生むことになる。1953年、ついにマイルスも改心。
父親の農園内のゲスト・ハウスにl週間こもり、麻薬を克服した。
 「Birth of the Cool」1950録音 「クール・ジャズ」の誕生のちの「西海岸ジャズ」に影響大
 「Birdland 1951」 1951録音、
 「Miles Davis, Vol.1」 1952 53録音 オールスターズによる演奏
  「Miles Davis, Vol. 2」1952 53録音 第2集
【プレスティッジ時代 - ジャズ史に残る2つのセッション - 】
1954年12月24日のクリスマスイブ、ピアニストのセロニアス・モンクの極めて個性的な演奏としっくりこないと感じたマイルスは、トランペット・ソロのバックで弾かないように注文。それに腹を立てたモンクはそのソロが終わっても演奏しなかった…と伝えられるのが通称「喧嘩セッション」である。この頃からマイルスは、自己のジャズを実現するため強力なリーダーシップをとるようになっていった。その理想をかなえるため、個人レーベルだったプレスティッジでは飽き足らなくなり、大掛かりなプロモーションができる大手のコロンビアと契約。しかし、まだプレスティッジでの数枚のアルバム契約が残っていた。それを一気に解消するため、1956年5月と10月の2日間で計25曲を大量レコーディング。これが「マラソン・セッション」である。ちなみに「◎Round About Midnight」の発売を優先させるため、コロンビアの要請で年1枚ずつ4年に渡って「ing 4部作」は発売された。JAZZCDJPより抜粋。(つづく)

WALKIN'

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COOKIN-RUDY VAN GELDER RE

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Ascenseur Pour L'Echafaud (Lift To The Scaffold): Original Soundtrack

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Milestones

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